2011年5月6日金曜日

普遍ということ。或いは異国への手紙(日本)

じわりじわりと水をたたえた空が広がり、
それは夢だとどこかで鈴が鳴る。

この空は
私たちだけのものではなく
何者にも同じように在る。

どこにいても。

私は誰に手紙を書こう。
いや、書かなくてもいいのかもしれない。
そんな相手はどこにもいないのかもしれない。

しかし、もし、届くのならば。


日常があるから非日常がある。
今現在の日本の状況。
ここから抜け出す方法を皆が考え、待っている。
ゆったりとしたペースであっても、
文化の復興まで人間としての心の行き先を
たゆたいながらも持たせなければならない。


それにはまず食べることだ。
食べることは生きることだ。


ただ一枚の写真でもいい。
そこに強く光る眼差しがあるのなら、
私は動くはずのないプリント紙の乾いた口をこじ開け、
一片の肉を放り込んでやる。

しかし現実には
目の前の腹を空かせた子どもに
リクエストどおりのカレーライスを作る。
此れだけが
私に出来ることだ。

黒土を纏ったじゃがいもの皮を剥き
人参のこわばった匂いを吸い込み
どこからともなくやってくる痛みに涙を浮かばせながら
玉葱をブッタ切る。
肉は血だらけだが構わず炒め
少々のスパイスとカレールーを投げ入れ。

血だろ?
欲しいものは。
足りないものは。

口開けて待ってろよ。
いつでも放り込んでやる。
どれだけでも作ってやる。
それが、
生きることなら。

見なくてもいい。
知らなくてもいい。
そんなこともきっとある。
塞ぐのは、自由だ。

食べるも食べないも選択できる私たちは
どちらを選ぶのか?

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